A carte album attributed to Shimooka Renjo, album dated 1865-1868

下岡蓮杖
判型
335 × 240 mm
頁数
24頁、掲載作品144点
製本
ソフトカバー
発行年
2021
エディション
300
ISBN
978-4-910244-07-5

日本写真の開祖と称される下岡蓮杖(1823-1914年)の未発表作品144点を初公開。幕末から明治初期にかけての日本の姿が蘇りました。

明治初期(1868-1912年)、一人の事業家が横浜の日本人町にある下岡蓮杖(1823-1914年)の今にも崩れそうなアトリエを訪れ、12ダースの手彩色写真を大量に購入しました。合計144点のこの写真群は、蓮杖のポートフォリオのなかでは最大規模のものとなります。特に重要なのは、これらの写真群がどのような形で世に出たかということです。14枚の紙が3つの真鍮製の留め具で綴じられた、シンプルな装丁のアルバムで、日本の写真界のパイオニアである蓮杖の現存する作品にはあまり見られないまとまりと文脈を持っています。表裏を紙で保護し、手製の紙の支えで固定された宝石のような写真は、1ページに6枚ずつ掲載されており、ごく一部の例外を除いて、日本語で手書きされた現代的な説明文が添えられています。これらの写真に含まれる情報は、時折、アルバムの元の所有者によって英語のキャプションが添えられており、蓮杖がどのようにして自身の特徴的なポートフォリオを作成したのかについて、貴重な洞察を与えてくれています。

― Sebastian Dobson (写真史家)

 

下岡蓮杖(しもおか・れんじょう)
日本の写真開祖の一人(1823-1914)。日本人初の営業写真師は鵜飼玉川(うかいぎょくせん)の方がわずかに早いが、横山松三郎、臼井秀三郎、鈴木真一など多くの弟子を輩出した開祖と呼ぶべき人物です。伊豆下田に生まれ、13歳の頃に画家を目指し、江戸狩野派絵師・狩野董川(とうせん)の弟子となり、董圓(えん)の号を得るまでに至ります。絵師としての生活で写真と出会います。1859年に横浜が開港すると、アメリカの貿易商ショイヤーと関わり、その妻や宣教師の娘「ラウダ」に油彩画の手ほどきを受け、アメリカ人写真師ジョン・ウィルソンから写真技術を学びます。1862年に開業するも、当初は技術的な面や薬剤の調合などが難しく苦労します。やがて技術も安定し、同年中に弁天町に写真場を増やすと『横浜奇談』(1864年)に写真師として唯一載るなど知名度を上げていきました。馬車道をはじめ2軒の支店を出し、1875年頃まで写真師として第一線で活躍しました。その後は東京・浅草へ移り、写場背景画の制作をする傍ら多くの日本画作品を制作し、写真とは異なる手業の画面制作へ情熱を傾けていきました。
東京都写真美術館より